1753年(宝暦3年)
薩摩藩に命令が出る
たび重なる水害にこまっていた江戸幕府は、木曽三川の治水工事を薩摩藩に命じた。
1754年(宝暦4年)
工事が始まる
薩摩藩の平田靱負が中心となり、約1000人の薩摩藩士をひきいて工事に取り組んだ。
1755年(宝暦5年)
宝暦治水が完成する
木曽川・長良川・揖斐川の流れを治すための工事が1年あまりで完成。水害がへり、村同士が協力しあうきっかけにもなった。
同年
平田靱負がなくなる
工事が終わった年、平田靱負は命をたった。その死にはいくつかの説があり、責任を感じて切腹したという説や、病死したという説がある。
1887年(明治20年)
デ・レーケが木曽三川の調査をはじめる
明治時代になると、オランダの土木技師ヨハネス・デ・レーケが日本にまねかれ、木曽三川の大きな改修工事を計画した。
1896年(明治29年)
木曽三川分流工事が始まる
それまで1つの川のように広がっていた木曽三川を3つの川(木曽川・長良川・揖斐川)に分ける工事が始まった。
1910年(明治43年)
明治改修が完成する
大きな堤防をつくって、川の流れをきちんと分ける「明治改修」が完成した。これにより、さらに水害がへった。宝暦治水でつくられた洗堰は、明治改修前までのおよそ150年間、長良川と揖斐川の流れを調整する大切な役目をはたした。